まじめ道楽

観たもの、聴いたもの、読んだもので生きる

終わりがあるもの

久しぶりにちゃんとブログというものを書きたいと思い、キーボードを叩き始めてみたものの、何を書いたらいいのかわからず、思いついたタイトルだけポーンと投げて始めています。

季節は秋にさしかかり、涼しい夜に虫が鳴いてる。このブログを始めたのが職場を変えた秋の頃で、もう3年経とうとしている。しばらくは狂ったように耳コピ記事をあげていたのが何に駆り立てられたのか今ではわからないけど、気が向いたときにできて振り返っても悶々としない息抜きにできていたのだと思う。

 

気づけば30歳を過ぎていて、自分が30になることになんの感慨深さも実感もなく迎えた。一つ歳を重ねるおめでたさもよくわからなくなった(死なずに生きているありがたさを思いなさい)。

仕事が忙しくて忙殺されたわけじゃないけど、気が狂ったように仕事していた前の職場から比べると、自分の時間も精神的な余裕も増えて、躍起になっていた精神や勢いが急に自分の中から消え去って、抜け殻のようになっている気がする。今も。前の職場の3年間と同じ時間が経てば、なにか変わるんじゃないかと根拠のない自信をもって3年間を過ごしたけど、結局部屋でぽーっとする日々は変わらないままだった。

 

むしろ、今までぽーっとできなかった分、ぽーっとしてやる、常に何かをし続けなければいけないということなどない、という決然とした強い意志を持って休日を有意義に過ごしているのだ、と高らかに拳を握っても、それはただの怠け者なのだけれど。

何かに向かって頭や体を動かし続けることに追われる必要はあったのかなと、何にも縛られないところでふわふわした考えに落ち着いている気がする。前は何もしていない自分を追い詰めるように、空いた時間のないように常に本を開いたり音楽を聴いたり、映像を見たりしていたと思う。その切迫感をリセットした生活を送ることで、ずいぶんと精神が楽になった実感はある。昼寝をするようになったのは、自分の中でも大きな一歩だと思う。しかし、昼寝をした時間をあとになって、「何もしなかった時間だ……もったいない」と思う自分がいて、その自分に対して、

「いや、昼寝をしたのだからなにもしなかったわけではない。むしろ、なにもしなかったということをしたのだから、私は常に何かをしているのだ」

という、バカみたいに哲学的な屁理屈を並べて自分を誇らしく納得させている。

 

せっかく増えた自分の時間に、最近は漫画を読むことが多くなった。趣味は人並みに本を読むし、映画もアニメも観るという感じで、一つのことに熱中し続ける集中力がないために専門性を極める趣味はないと思う。

現代人の悩みなのか、部屋で2時間の映画を観ることが最近はしんどくなってきた。25分くらいのアニメを1、2話観る程度でちょうどいい。でも映画館では集中して観れる。やっぱり何かを楽しむにも、それに向かい合う心の準備と現実を切り離して楽しめる環境づくりというのは大事なんだなと感じた。

小説や専門書、実用書を読んでも文字が頭に入ってこない時期もあったけど、最近は少しずつ読めるようになってきた。

とはいえ、だんだん吸収するためのエネルギーにコストがかかるようになってきたし、体力や気力が落ちている気がする。そんな今でも気楽に触れられる漫画。漫画を読まなかった期間を埋めるようにいろんなものを読んでいる中で出会ってしまった。

 

少女終末旅行

 

一瞬で惚れてしまった。

あえてジャンル分けするならばSF(終末系)になるのだけど、二人の会話劇、線の数で明暗を描くタッチ、構図、意外とタッチや背景に馴染む童顔丸顔のキャラ、台詞の余白、文明が崩壊し物質が減少した世界で見直される物と存在の価値。宗教哲学。すべてに一切の無駄がない洗練された漫画だった。アニメでの映像表現や臨場感のある音、二人の空気感が見事に映像化されていて、二期や劇場版で原作の最後まで制作されなかったことがとても惜しい。作られたら化けたと思う。

サブカルのいいとこどりをしたような作品で、きっと同じような作品が生まれているのだろうけれど、これだけは唯一無二だと感じた。ブルーレイも買っちゃった。

「おすすめの漫画はなんですか?」と聞かれたら、

少女終末旅行」と条件反射で答えるオウムのようになっているこの頃です。

 

終末世界の文明を見つめながら旅をする二人の台詞に込められる問いかけや思想の示唆。緩やかな会話の中に時折滲む終わりの予感。終わりに向かっていく中で、生を慈しむことの尊さ。いや、読んだ当時感じたことはこういうことじゃなかった気がする。けど、閉塞感の拭えない時代と終末世界というのは共通していると感じるし、山に登る中で物を捨てていく場面は、物質への執着を捨てていく仏教的な思想を感じて、作中に登場したショーペンハウアーの厭世思想と重なったことは興味を深められた発見だった。浅学なので本を読んでみたい。

それも物語の要素の一つとして進み、最後はチトとユーの二人に収束するところがすごく良かったなと思う。という感想はいいとして、作者のつくみずさんがあとがきに書かれた言葉がとても印象に残っています。

 

『終わりがあるというのはとても優しいことだと思います』

 

作中出てくるロボットやAIが最もその象徴的なものだと思うのですが、終わりのない永遠が続いている途方もない無限の未来をただ漫然と迎え続けることの辛さ。それに終わりを告げることは、苦痛からの解放。物事が終わりを迎えることの安らぎを後味として残してくれる読後感に、寂しさと清々しい気持ちになったことも確かでした。

終わりがあるから、生を慈しむことができる。『あなたの人生の物語』にも感じた「どんな未来が来ることがわかっていても、訪れるその瞬間を慈しむことができる」気持ち(冷静に、自分には無理だと思った)。ここ最近読んだ『生物はなぜ死ぬのか』という本を読んでも、生命の終わりを意識したし、シンクロニシティ的に「終わりがあること」を考えることが多くなっている気がする。私たちも死に向かっていることは当然の事実で、死に向かって生きている。けれど、いつか死ぬことをわかっていて今からびくびくする人がいないことと同じように、人は瞬間に楽しんだり感動したり、生きることを楽しむことができる。

作中の二人が迎える光景とその姿を見ることができてよかった。あまりにも幸せそうに見えたから。

現実と終末世界をリンクして感じられた時、彼女たちのような心持ちで居られたら少しは和らぐものがあって、絶望と仲良くしながら、人生を旅するように歩いていけたらいいなと思ったりする。なんとも言えないけれど、大好きで大切にしたい漫画。

 

一日を重ねていくことも、歳を取ることも、小さな終わりを一つ一つ迎えていることになる。普通に生きていたら、その一つ一つに区切りを意識することもなくなって、自分が今どこを進んでいるかわからなくなっている気がする。

だからこうして、その時の自分の気持ちを少しでも置いて、また次の日を迎える意味で書いてみるのもいいのかなと思った。

気まぐれに終わるかもしれないが、気持ちの節目には書いていきたいところ。

ひとまず、おやすみなさいを言って、今日はおしまい。